フォトライブラリー特集 NO.7 「きたぐに」&「能登」


☆ 「きたぐに」の歴史

日本海縦貫線を走る急行列車のルーツは大正期にもさかのぼり、第2次世界大戦の激化で一旦運転を取りやめた時代もあったものの、戦後の昭和22年7月に大阪−青森に復活。それまでは無名の急行として運転されていましたが、昭和25年11月の優等列車愛称設定の際に列車名「日本海」が与えられました。それまでは上下で停車駅が通過時間の関係でバラつき、定義性を持ち合わせていませんでしたが、この時に下り列車の時刻を大幅に修正、上下列車とも北陸線内を夜行とする運転時間帯を確立しました。

客車設定廃止間際に正面を飾った、急行としては珍しいヘッドマーク(85・3 米原機関区)
電照式のヘッドマークが糸魚川−米原で最終列車の先頭を飾った
実際の牽引機はEF81型(85・3 敦賀第2機関区)

その後昭和43年10月に「日本海」は20系ブルートレイン客車を使用した寝台特急列車として格上げされ、運転時間をそのまま踏襲した列車として「きたぐに」が再登場。当時の急行列車には食堂車も連結され、旅を急がない乗客には相変わらずの人気を博して、「きたぐに」では昼行の特急「白鳥」、金沢からの急行「しらゆき」、夜行の特急「日本海」に押されながらも大阪−新潟に1等、2等の寝台車を連結して根強い運転を続けていました。43年以前の急行「きたぐに」の愛称は現在と同じ大阪−新潟にあり、大阪−金沢を和倉(現:和倉温泉)まで直通する急行「奥能登」と共に58系急行型気動車で運転されていました。
そんな「きたぐに」が大きく日本史に汚点を残したのが、昭和47年11月6日未明の北陸トンネル内に下り「きたぐに」で発生したトンネル火災、世に言う「きたぐに火災」でした。山陽新幹線の六甲トンネルが完成していたとは言え、日本第2の長大トンネルで食堂車、オシ17−2018形からタバコの不始末が原因とされる出火があり、トンネル内で炎上がひどくなり起電は停止、暗闇の中で29人が焼死、又は中毒死するという、日本で最悪のトンネル事故を引き起こしてしまいました。実際の原因とはなっていないものの、この時の報道と国鉄の車両火災対策の両面から、僅か2年も足らずに急行列車に食堂車は廃止、石炭を火力元とする旧式の食堂車も廃車の一途をたどる事となりました。その後石炭火力の食堂車の国内走行は、昭和63年9月から12月に日本上陸運転を果たした、「ノスタルジア・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」、「きたぐに火災」から15年を経ての事でした。


山科付近を走る上り急行「きたぐに」(昭和50年頃)
機関車EF58−36が牽引し、郵便車オユ14形
+12系客車6両+10系寝台車5両の12両編成


オシ17型食堂車(写真は50番代のオシ17−2055)


オロネフ10型2等(A)寝台客車(写真はオロネ10−27)

―――→
急行「日本海」時代。上野−金沢の夜行列車名は
急行「黒部」。「越前」が大阪−金沢で、471系急行型
電車を使用。名古屋−名古屋を循環準急「しろがね」
(逆ルートは「こがね」)が運転されていた時代

昭和39年10月ダイヤ改正時の北陸本線上り時刻表

昭和50年3月のダイヤ改正では、それまで東京−西鹿児島を日豊本線経由で29時間を要して運転していた急行「高千穂」や、門司まで併結で、鹿児島本線を走破して東京−西鹿児島を結んだ急行「桜島」が廃止されたのに伴い、「きたぐに」は運転距離・時間において最長の急行となりました。しかし一大転機が訪れたのは昭和57年11月15日の大改正の時でした。北陸、日本海縦貫線は、上野−青森の485系特急「いなほ」が新幹線を新潟から受け継ぎ、新潟−秋田・青森を走るL特急として再スタート。「はくたか」の廃止で効率の悪くなる金沢−新潟には「北越」を増発、「雷鳥」も延長運転するなど上越新幹線開業のあおりを補正し、こまやかでスピーディーなサービスを追及してゆく事になりました。この為現状の「きたぐに」のような運転形態では福井−青森を急行「しらゆき」の特急格上げで登場した特急「白鳥1・4号」と青森到着時刻は殆ど変わらなくなり、特急列車が昼間を席巻する事で客車急行の優等生が無くなると判断され、夜行区間の大阪−新潟を残して以北は廃止。それまで旧型客車を連ねた編成も上野−盛岡の寝台特急「北星」の廃止で余剰となった14系3段式ブルートレイン寝台をA寝台を含む5両連結した特急型客車編成に改められました


97.11.23 宮原操車場
撮影会で12年ぶりに見せた
(EF65−1120)

「きたぐに」に昭和47年から
57年まで使用された
12系急行形客車

「きたぐに」には82.11から85.3、
「能登」には82.11から93.12
まで使用された14系(座席)

それでも主に東北の夏祭りが集中する時期には京阪神からも「きたぐに」を利用して観光する乗客が多かった事もあり、58,59年の夏、及び年末年始の帰省シーズンには大阪発青森行に12系急行型客車を使用した急行「あおもり」を運転し、「きたぐに」を補完しました。昭和59年2月のダイヤ改正では荷物車が編成から姿を消し、翌60年3月の改正では特急型電車を使用した初めての定期急行列車として、583系昼夜兼用電車を「きたぐに」専用車種として12両編成で運転することになりました。A寝台車には付随B寝台車、サハネ581型を改造したサロネ581型を新たに加え、昼間は臨時特急「雷鳥」や、急行「庄内」として間合い運転をして兼用車両のメリットを存分に活用する事となりました。583系化程なくして編成は10両へと短縮されますが、運転時間は電車化後大幅に変更される事なく15年を経た事になります。定期列車としての「きたぐに」終始夜行列車として1往復のみ運転されていますが、廃止されずに現在に至っているのは、元々高速路線に運転されつつも、夜の北陸をカバーする役割を確立している事によるものです。

83年と84年の帰省シーズンに片道運転をした急行「あおもり」 12系急行型客車を12両連ねた
昭和47年の北陸トンネル事故以後、速やかに難燃対策として12系が先行投入された(北村様ご提供)

☆2代目「きたぐに」の使用車両

10系軽量客車(昭和43年〜57年)

戦後復興の主力を担った大正・戦前期の木造客車を全面的に置き換える事を目的に、鋼体から設計を見直し、製造コストと車体の軽量化、そして列車のスピードアップを目的に昭和31年から33年まで製造された一般型客車。製造初年から昼行特急「かもめ」(京都−博多)、夜行特急「あさかぜ」(東京−博多)や、‘青大将’と呼ばれる淡緑の国鉄基色で編成を奇抜に統一した特急「つばめ」「はと」(東京−大阪)などに使用され、昭和60年まで現役で活躍を続けた。製造形式は、ナハ10,ナハ11,ナハフ10,ナハフ11,ナロ10,ナハネ10,ナハネフ10,オロネ10,ナロハネ10と、改造形式のオロ11,オハネ12,オハネフ12,オハネフ13,オハネ17,スハネ16,オロネフ10,オロハネ12,オシ17,オシ16,マニ12,マニ13,オユ10,オユ14と多種があり、「きたぐに」で使用されたのは全て改造形式となるオハネフ12,スハネ16,オロネフ10,オユ14,そしてオシ17の5形列ですが、北陸トンネル事故以降は食堂車オシ17は連結されていません。


クハネ583−28
(国鉄特急色)

クハネ581
(リゾート&シュプール色)

クハネ581
(JR西日本標準色)

12系急行型客車(昭和48年〜57年)

昭和45年に開催された大阪万国博覧会に伴う全国からの観光客大量輸送を見込み、将来の旧型客車急行の置き換えも念頭に含んだ急行型客車として製造、昭和44年から同53年まで製造は続き、東北や山陽方面の急行、臨時用に大量投入された。客車自体にディーゼル発電機を設置して空調や照明を確保し、20系ブルートレイン同様編成を固定する事をメインコンセプトとした。製造同期にキハ65形ディーゼル車があり、車内構造は殆ど同じになっている。急行列車が削減されてきた昭和56年からお座敷列車への改造が始まり、また現在では大口団体の減少から廃車も進み、JR東日本、西日本、四国、九州の各社で少数が残る存在となってしまった。「きたぐに」では北陸トンネル火災から間も無く寝台車を除く青森行の旧型客車を12系化し、新潟−青森が廃止された昭和57年11月ダイヤ改正まで使用された。

14系ブルートレイン客車(昭和57年〜60年)

座席車:昭和46年から東北や山陽の特急を客車列車として臨時増発する為に、12系急行型客車の客室部分を改良し、同48までの2年という短期間で大量に製造された特急型客車。山陽特急の「しおじ」(新大阪−広島・下関)、「金星」(名古屋−西鹿児島)や、東北特急「つばさ」(上野−秋田)、「はつかり」(上野−青森)、信越特急「そよかぜ」(上野−中軽井沢)などに使用されたが、夜行や特急列車のスピードアップに対応できず、昭和57年から夜行の急行に転用される事が多くなった。急行列車での定期利用は、昭和57年11月改正からの「きたぐに」「能登」「八甲田」(上野−青森・東北経由)に始まり、「利尻」(札幌−稚内)「宗谷」(札幌−稚内)「天北」(札幌−稚内・天北経由)「大雪」(札幌−網走)「まりも」(札幌−釧路・石勝経由)「ニセコ」(函館−札幌・小樽経由)「はまなす」(青森−札幌)「津軽」(上野−青森・奥羽経由)「おが」(上野−秋田・奥羽経由)「妙高」(上野−長野)があり、現在では廃車も進んでいるものの、北海道を中心に活躍を続けている。「きたぐに」では寝台車5両と共に、座席車も5両が使用され、昭和57年から同60年3月ダイヤ改正で583系電車に変更されるまで使用された。


昭和43年10月ダイヤ改正時の北陸本線上り時刻表(抜粋)

583系電車(昭和60年〜現在)

昭和42年10月に寝台特急「月光」と昼行特急「みどり」の、昼夜兼用特急として運転を開始した581系電車に端を発し、東北本線の全線複線電化で昼行「はつかり」と夜行「はくつる」「ゆうづる」に使用され始めた交流50・60ヘルツ両対応の交直流特急型電車が583系。昭和57年11月改正時まで隆盛を極めたものの、九州、東北、北陸の客車ローカルを置き換えるために近郊型電車に改造されたり、昼行特急としての車内サービスの悪さから使用も敬遠されたりで、現在定期で使用されているのは「きたぐに」1往復のみ。

クハネ583−27とクハネ581が向日町運転所で並ぶ
12両に増結して運転することもある 先頭はクハネ581

☆「能登」の歴史

現在の「能登」の歴史はそのまま昭和57年11月に廃止された福井−上野の急行「越前」に重なり、現在の運転経路は昭和42年10月のダイヤ改正までの急行「黒部」や、改正から大阪−金沢を短縮した急行「北陸2号」、そして同43年から50年に福井−上野を走っていた季節運転急行「北陸1号」に重複しています。「能登」という名称は昭和30年頃の東京−金沢を米原経由で運転された急行列車に端を発し、昭和43年10月のダイヤ改正で一旦廃止。復活したのは同50年3月で、「北陸」が特急列車に格上げされたのに伴う愛称復活でした。

運転開始当時の「能登」には3軸ボギー台車を履く2等寝台、マロネフ38型客車や昭和31年に登場した軽量客車10系の寝台車ナハネ11型、それに特急用の特別2等車スロ54型、急行型客車の代名詞43系客車を使用し、名古屋で分割・併合する東京−紀伊勝浦の紀勢本線急行「那智」、東京−鳥羽の参宮線入線急行「紀勢」を東京方に連結した3階建列車として運転していました。同39年には単独運転になったものの、42年4月から43年10月の廃止までは東京−湊町・和歌山市の急行「大和」に東京−名古屋を併結しての運転になりました。因みにこの急行「大和」は、王子−和歌山市を寝台車1両だけで和歌山線を普通として運転された特異列車として知る方も多い列車です。

金沢発上り客車最終「能登」  牽引は長岡運転所のEF81型(93.12.2 金沢)
未明の横川駅  碓氷峠を3重連で下り、峠の主EF63型を開放する上り「能登」

昭和50年に「能登」の愛称が復活した当時は、それまでの「北陸」を全く受け継いでの上越線経由でした。使用客車でも寝台車を間引きしたとはいえほぼ同じ車両を用い、昭和57年11月まで運転され続けました。上越新幹線が開業したその日より、福井発着の信越夜行急行「越前」が廃止されたのに伴い、「能登」は14系ブルートレインと座席車を混結した8両編成となり、信越本線長野ルートを経由する事になりました。その後昭和63年から平成3年までは毎週土曜日に七尾線を七尾、或いは輪島まで足を延ばして、文字通り能登路を走行していましたが、それも平成3年7月の金沢駅の高架化で設定を廃止され、平成5年12月にはJR東日本の夜行列車大量廃止のあおりを受けてJR西日本金沢運転所が持つ489系特急型電車9両となり、昼行の特急「白山」と共通運用となりました。また、その年の年末年始には福井まで延長運転が行われはじめ、約1年間臨時設定ではあるものの毎日運転され続け、翌平成6年12月には定期列車として完全に福井−上野に運転経路変更、「越前」とルートを同じくする事となり、更に平成9年10月の長野新幹線開業に伴う信越本線、横川−篠ノ井の区間廃止の影響で、長岡を経由する上越ルートに経路を変更され、かつての季節急行「北陸1号」状態になってしまったのです。
しかし余りにも福井−金沢の乗客は少なく、団体列車で東京ディズニーリゾートへ行く旅行商品や、航空機を利用した格安の宿泊プランなどが確立されると、定期夜行列車の存在意識も薄れてしまい、平成13年3月3日のダイヤ改正当日の下り福井行を最後に、福井−金沢の運転は廃止されてしまいました。

昭和59年頃の北陸本線の朝の普通列車。米原経由の「能登」も手取川大橋を9:00頃通過した(小舞子−美川)
上り最終の「越前」に使用されたナハネ10改造のB寝台車オハネフ13型 碓氷峠を通過する600番代(旧小松)

☆2代目「能登」の使用車両

旧形急行型客車(昭和50年〜57年)

尾久客車区に所属する車両を主に使用された。戦前期に製造された35系客車や、戦前製31系木造客車を戦後鋼製台枠のみ流用して新製鋼体車体を乗せて作られた61系一般形客車のグリーン車改造車スロ62、昭和25年から29年にかけて製造された43系急行形客車、そして荷物車マニ35形などが、電気暖房給電装置を持つ交流電気機関車EF70形や、従来の蒸気暖房から電気暖房給電装置に改造された直流電気機関車EF58形に牽引される事から、それに合わせて電気暖房発生装置を搭載した2000番台グループで任に充った。

10系寝台客車(昭和50年〜57年)

A寝台オロネ10形,B寝台オハネ12,オハネフ12,オハネフ13,座席車ナハ11,ナハフ11、そして荷物車マニ12などが主に使用された。福井発着で信越本線を経由した急行「越前」には福井客車区に所属し、碓氷峠がアプト式時代に軽井沢側の矢ヶ崎信号所にあったバーチカルカーブ(縦カーブ)をレールに床下機器が接触しないように改造を受けた600番台(電気暖房装置の改造でプラス2000番)を晩年まで使用し続けていたが、上越線経由の「能登」には殆ど特種改造車は使用されていない。電気暖房給電装置を持つ交流電気機関車EF70形や、従来の蒸気暖房から電気暖房給電装置に改造された直流電気機関車EF58形に牽引される事から、それに合わせて電気暖房発生装置を搭載した2000番台グループで任に充った。

軽量客車の先駆となったナハフ11型トップナンバー 製造工法はその後の国鉄車両の基礎となった(新前橋)
ナハネ12型3等(→2等→B)寝台車(写真はナハネ12−29 最終運用は普通「ながさき」)

12系急行型客車(昭和57年〜平成5年)

定期列車ではなく、臨時列車「能登51・52(後に81・82)号」に使用された。長野新幹線の工事が進むにつれ夜間の信越線通過が困難となり、経路がかつての「能登」ルートの上越線経由に戻ったものの、列車名「加賀」となり設定廃止となってしまった。

14系ブルートレイン客車(昭和57年〜平成3年)

座席車5両とB寝台車3両が碓氷峠通過用対策を実施して組成されていた。同区間の上越線ルートには特急「北陸」が運転され、寝台の2段改造や個室化などグレードアップを続ける一方で、3段寝台を守り、特急列車との格差を居住内容で主張しつづけた。

クハ489−1(93.5 松任)
クハ489−3(93.8.1 旧小松)

489系特急型電車(平成3年〜現在)

北陸本線糸魚川−直江津の直流電化開業によるスピードの大幅アップと輸送力増強を目的に、昭和46年10月当時の北陸優等列車に大規模なテコ入れを行うべく、それまで信越本線を経由して上野と金沢を結んでいたディーゼル特急「はくたか」を上越線経由で向日町運転所(現京都総合車両所)所属の481・485系を使用した電車特急に置き換え、その「はくたか」をそれまで補完していた同区間を走る客車急行「白山」の名前を譲り受けた形で電車特急化する為、横川−軽井沢に介在する急勾配「碓氷峠」で補機となるEF63型直流電気機関車の制御システムを伝達する協調システムなどの特殊装備を搭載して乗り入れを可能とした形式で、昭和50年までに14編成が製造。平成9年の長野新幹線開業に伴って、碓氷峠が廃止され489系電車はその存在意義を失い、JR東日本が国鉄金沢鉄道管理局から譲り受けた29両の内、上沼垂運転区に保留車として所属するグリーン車2両を除き、全車廃車となっている。


クハ489−2(01.2 松任)

クハ489−502(01.1 加賀温泉)

クハ489−502(99.4 加賀温泉)

クハ489−505(99.6 加賀温泉)

クハ489-5(00.8.15 松任)

★あとがき★

急行列車とは言え侮るなかれ、こんなに歴史が深いものだとは、制作中での実感でした。てっとりばやく言えば急行列車の愛称や使用車両は常に特急の後に来るものなので、タライ回しされる事が多いという事で、その為に歴史を掘り起こしていくと 思いがけない背景が浮かび上がってくるという事でした。現在における愛称のたらい回しで見られるものといえば、九州の「つばめ」「きらめき」あたりでしょうか。

〜「きたぐに」&「能登」ロケ地ガイド〜


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